TOP > スクールライフ > 研修旅行記

I・Tくん
「ようこそ韓国へ」おそらくハングルでそう書かれた看板が出迎えてくれた。
今回の研修旅行で、韓国へ行くのは二度目になる。初めて行ったのは三歳のときで,海外へ来たということもわかっていなかったが、日本人と同じような顔をしているのに日本語が伝わらなかったことは鮮明に覚えている。看板を過ぎた所にあるトイレに入ると、今どきの若者がいた。日本の若者と変わりはなかったが、話している言葉は韓国語だった。そのとき、ふと昔のことを思い出したと同時に、海外へ来たという不安と期待が湧き出た。
私は中学校の卒業文集に「隣の国の人に日本をわかってもらいたい」と大きな夢を書いた。今回は、大きなチャンスだった。韓国人は日本人を敵視している。そういったイメージを持っていたが、驚いたことに私が会った韓国人はとても親切だった。例えば、明洞である。明洞は大きな繁華街。ブティックがたくさん並んでいたし、韓国人の若者もたくさんいた。生まれて初めて逆ナンされたときは、韓国でもイケているのだとわかった。しかし、日本という国に好意を持っているかと聞かれるとおそらくNOだ。
私たちは、DMZ(非武装地帯)を見学した。北朝鮮との間に引かれた軍事境界線付近だ。北朝鮮が対南奇襲用に掘ったとされる第三トンネルは、冷戦時代の凍りつくような緊張を生々しく体感させてくれる。
その後、「自由の橋」を渡った。木組みのこの質素な橋は南北の捕虜交換のために急造され,1万人以上の捕虜が北から南へ渡ったらしい。「自由万歳」と叫びながら。
五千年の歴史といわれる朝鮮は、ひとつの言葉を話し、ひとつの民族としてどんな困難にも立ち向かってきた。なのに、なぜ、このような悲しいことが起ってしまったのだろう。
決して忘れてはいけないことは、38度線は軍国日本の置き土産であるということだ。広島・長崎への原爆投下(八月六日、九日)→ソ連の参戦(八月八日)→ポツダム宣言受諾(八月十四日)。このソ連の参戦によって、日本の植民地であった朝鮮をアメリカとソ連が奪い合ったのだ。そして、これが元になって起きた朝鮮戦争を契機に日本は経済大国へと成長した。まさに甘い蜜を吸っていた日本に好意を持てというのは難しいと思う。
38度線のことをガイドさんは「国境」とは言わずに「境界線」と言っていた。これは休戦中で、またいつ戦争が起こるかわからないという意味だが、私は「朝鮮というひとつの国だった歴史を忘れてはいない。」という意味にとれた。いつか日本も協力して,朝鮮がひとつの国になってくれたらと願う。
ガイドさんやソウル市内を案内してくれた韓国の大学生に日本についてたくさん教えることができたし、興味を持ってもらえてうれしかった。
そして、一番の獲得は友だちや先生との信頼がより一層強くなったことだ。今回の研修旅行の思い出は、大人になってもふっと思い出される、まるで双眼鏡を反対からのぞいたように小さくて遠いけど、決して消えない思い出として私のソウルに残るはずだ。カムサハムニダ。