2022/09/18

「大根を半分」をご紹介したい

昨日の多義文はいかがだったろうか。回答はあえて申すまい。皆さんでお考え願いたい。さて、本日と明日は沢木耕太郎氏短文をお送りしたい。沢木氏と言えば「深夜特急」が最も有名か。私も夢中で読んだ記憶がある。バックパッカーのバイブル。未読の方には是非ともお勧めしたい。

さて、本日と明日は氏の「大根を半分」という短編をご紹介したい。お付き合い願いたい。
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大根を半分
沢木耕太郎

バスに乗るのは久しぶりだった。都内のマンションに住む彼は、通勤には電車を使うだけであり、仕事ではタクシーと地下鉄でほとんど用が足りていた。

乗客の大半は女性か老人で、あとは制服姿の中、高校生がいるだけだった。彼がバスに乗り込んだ時、席はまだ二つ、三つ空いていたが、あえて座らなかった。座ったあとで、席を譲らなければならなくなるのがいやだったからだ。譲ることがいやなのではなかった。譲るべきかどうか悩まなくてはならないこと、席を立っても相手が素直に座ってくれずバツの悪い思いをすること、さらに自分が譲ることでその近辺に座っている人たちに小さな罪悪感を覚えさせてしまうことがいやだったのだ。だから、彼は電車の中でもめったに座ることが出来なかった。

彼は降車口の近くに立って、壁面に貼られている結婚式場やエステティックサロンの広告を眺めていた。
その時、不意に声がした。
「これ、もらっていただけませんか」
それはごく穏やかな声だったが、静かなバスの中ではことさら大きく響いた。

彼が声のする方に眼をやると、降車口の少し後ろの二人掛けの椅子に品のよさそうな老女が座っており、手に半分に切られた太い大根が握られていた。そして、その隣には、すぐ前の一人掛けの席にいる少女の母親と思われる女性が座っていた。どうやら、老女がその若い母親に大根をあげようとしているらしい。

唐突なことに若い母親が戸惑っていると、老女は弁解するように言った。
「ひとりなもので、一本では多すぎるんですよ。でも、一本でなければ買えないし……」
若い母親があいまいにうなずくと、老女はまた言った。
「これ、もらってくださると助かるんですけれど」
「いえ、でも……」

たぶんその老女はターミナル駅のどこかの食料品売り場で買い物をしてきたのだろう。そこで大根を一本買った。それはひとり暮らしの生活ではもてあますほど太くて長い大根だったが、その売り場には一本単位でしか売りに出ていなかった。いや、もしかしたら、その老女はたとえ半分売りがあったとしても、大根は一本で買いたいという思いがあった人だったのかもしれない。そして、ビニール袋に入れる際、あまりにも長いため半分に切っておいてもらっておいた……。

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本日はここまで。続きはまた明日。